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私の平成30年

今年も皆さん、ありがとうございました。

平成最後の年末です。

皆さんはどんな平成の30年であったでしょうか?

私の平成の始まりは、小学生から中学生になる頃でした。

片田舎の祖母の薬局の前の通りは、まだ頻繁に人が行きかい、ローカル線はたくさんの乗客を乗せて走っていました。

叔父はまだ大学院に通っており、東京に特急電車で帰る叔父に、手製のプラカードを持って踏切に立ち、祖母と見送ったりもしました。

中学高校と友人にも恵まれ、浮いた話はこれっぽっちもなかったですが、男だらけの(注;共学でした)楽しい青春時代を送りました。

平成7年から平成13年までの6年間、岐阜大学医学部に通い、無事に医師となりました。

 

平成の後半部分は医師としての18年でした。

たくさんの出会いがあり、たくさんの収穫もあり、たくさんの別れもありました。

茨城の片田舎の海は埋め立てられて遠くなり、岸ははるかに遠く、亡き祖父や叔父と歩いた波打ち際はもうありません。

未来を担うことを楽しみにしていた友人や仲間も、何人か旅立っていきました。

そして仕事柄避けることが出来ない別れは、もちろんそこに優劣などありませんが、一般の方が一生に看取る数をはるかに超えて、多くを経験しました。

がん対策基本法の成立前に緩和ケアを志し、平成17年に緩和ケア医になった時には、その頃は若手で緩和ケア医になりたいという医師が少なかったため、日本一若い緩和ケア医でした。

今よりも緩和ケアはずっと誤解されており、「名乗れば明日からホスピス医」ともささやかれ、「そんなところにいくのはまだ早い。緩和ケアに習得する技術などあるのか?」と真顔で心配されました。

緩和ケアは、すばらしい専門性を持ったれっきとした医療なのだということを伝えたく、またホスピスに不安でやって来られる方々に「その選択は間違いではない」と伝えたく、出版社への直接持ち込みで最初の緩和ケアの本を出しました。

当時珍しい、一般向けの緩和ケアの本でした。

出版歴もない20代の青年医師の持ち込みだったので、20件近く持ち込み、門前払いや、つれない対応も受けましたが、たまたま小学館の編集長が拾ってくれ、1年がかりで最初の本を出しました。

その本『死学』は1万部とそこそこ手にとってもらえましたが、緩和ケアの知名度をあげるためにはもっといろいろなことを発信していかなければならない、緩和ケアのすばらしさやすごさを伝えたい。

その思いは『死ぬときに後悔すること25』で結実し、25万部となり、多くのテレビやラジオ、文字媒体に出演・出稿させていただきました。

同じ頃、アメブロも開始し、10年が経過しようとしています。

 

在宅医を経験し、大学の緩和ケアセンター長になり、地域向けの勉強会も積極的に行いました。

2010年に大学病院に着任後から、診断時からの緩和ケア(早期からの緩和ケア)を開始し、2013年から限定的な形ながら他院通院中の患者さんの(治療中からの。早期からの)外来緩和ケアを開始、2015年よりそれを発展させた「地域緩和ケア外来」を開設しました。

北海道など遠方からの患者さんのご相談を受けたこともあります。

入院診療数も、都内有数の実績を達成しました(一時東京の5位)。

それでも、早期からの緩和ケアはまだ十分ではありません。

また地域差はかわらずあります。

それで平成が終わる最後の夏に、早期緩和ケアクリニックを立ち上げました。

たくさんの出会いと別れの中に、私の歩みは作られ、ゆっくりですが前に進んで参りました。

今では、「先生の本に出会って緩和ケア医になりたいと思いました」「緩和ケアに携わるようになったのは先生がきっかけです」等の、本当にありがたい言葉をいただくようになりました。

そのように未来に続く方々たちのひとつのきっかけになれたことは大変うれしく思っています。

私の30年をレビューしてみました。

皆さんの30年はどうであったでしょうか?

ぜひご家族や大切な方と、それらを話し合ってみてはいかがでしょうか?

きっとそれが力になるのではないかと存じます。

 

次の時代も、すばらしい時代になりますように。

皆様の健康とご多幸を祈念し、今年および平成最後の年末のしめとしたいと存じます。

ありがとうございました。

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About 大津 秀一

緩和医療専門医/緩和クリエーター。数千人の患者さんの緩和ケア、終末期医療に携わり、症状緩和のエキスパートとして活動している。著書や講演活動で、一般に向けて緩和ケアや終末期ケアについてわかりやすくお伝えすることをライフワークとしている。